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戦乱と文化の興隆 渡辺昇一

この本は徳富蘇峰の近世日本国民史をもとにしている。
織田信長の時代から筆を起こし、西南戦争と大久保利通の死まで
を記述した全百巻の膨大な近世史である。
なぜ織田信長からなのだろうか、それは現代の日本の家系は大名家
であれ、名門の家であれ、皇室と一部の公家を除けば、そのほどんど
が応仁の乱以降に始まる。それより前に遡れないのである。

応仁の乱とは結局は相続争いという名の所領争いである。
将軍家のみならず、管領家、斯波、細川、畠山でも家督相続をめぐる
内紛が起こった。そこに細川と山名という二大大名の対立がある。
足利義政はこの争いに全く興味がなく、文化芸術に没頭した。
彼は一種の天才であった。審美眼と美的感覚が抜群で唐や宋の名画
を集め、シナでは忘れられない牧谿の水墨画を高く評価した。
また茶碗でも彼が褒めたものは大名物と言われ、信長や秀吉の時代
には特別重要な茶器として尊ばれた。
京都が戦場になった大名が自分の領国に戻ってそれぞれ自国の経営
に努めたので地方でも文化が起こった。関東管領足利持氏を滅ぼして
関東管領になった執事上杉憲実は足利学校を再興した。
フランシスコザビエルも日本最大の坂東のアカデミーと紹介している。
都から遠く離れた関東にも学問のある人が多かった。
戦場となった京都から公家や僧がどんどん地方へ散っていったことが
各地へ文化の種を蒔くことになった。中央政府が弱体化したので
地方の豪族が自らの国を治める方法や民を手なづける方法を工夫
しなければならなかった。

室町将軍は全くあてにならず、崩壊寸前までいくと、その奥に不変な
ものが存在するということに気がついた。天皇に対する意識が高まって
きたのである。日本を再統一するためには天皇をバックにして命令を
しなければならない、それが一番だと明確な意識を持つ武将が生まれて
きた。戦国も末期になると毛利元就、上杉謙信、織田信秀など天皇家へ
寄付したり、献金したりする大名が出てくる。伊勢神宮建て替えのときは
内宮を六角家、下宮を織田家がお金と材木を出しているくらい織田家は
皇室尊皇派である。

ほぼ同じ時期にイギリスのヘンリー8世がカトリックの大修道院を徹底
して破壊し、織田信長は比叡山を焼き討ちにした。双方とも徹底した中世
破壊を行った。信長は軍事の天才でもあった。画期的なのは長篠の合戦
にて馬防柵を築いたことだ。これを欧州で使用したのはそれから116年後
のことである。信長が軍事的に優れているのは天才的な閃きだけでなく
状況を見極めて、じっくり構える秘湯があるときは決して慌てなかったことだ。

豊臣秀吉の朝鮮の役における本当に権威ある本を書いたのは徳富蘇峰
である。朝鮮側の資料を朝鮮総督府の寺内正毅に見せてもらい、南京の
図書館で明の文献も読むことで正確なことがわかっていた。
朝鮮は文弱の国だった。学問は朱子学の一点張り、朱子学というのは
宋の学問であり、元に負け、南に押し込まれたのが悔しくて作ったところが
ある学問なので、武を放棄しているところがある。その代わり大義名分に
うるさい。朝鮮ではお互い大義名分を振りかざし、仲間うちで喧嘩ばかり
して政権は腐敗している。封建制はつくらず、みんな科挙によって中央で
偉くなる。地方に行くと早く京城に戻りたいから土地の名産品をとりあげ
中央に送る。だからどこの地方でも名産品を作らなくなる。
空論と党派争い、物質的のみならず文化的にも明の属邦であり君臣の
意識が強かった。明に服従することを理想としていた。

明の日本軍に対する評価は地上の戦いは鉄砲と刀に優れ強いが、水軍
が弱かったと評価している。これは倭寇にも当てはまる。結局水軍の強さ
とは富と文明に比例する。話にならないくらい船が劣っていたこと。
指揮官が不在でバラバラに戦う。元来輸送船団だったこと。戦術も何も
あったわけでなく、これが補給を困難にした。

朝鮮の軍隊は戦争中ほとんど秀吉の視野に入っていなかった。
日本軍が近づくと朝鮮人は進んで門を開けたという。
日本軍は朝鮮を根拠地としてシナへ入る目的だったから統治は穏便だった。
日本軍より明軍が乱暴であり、朝鮮人はもっと質が悪かったと朝鮮側の資料
に記載されていた。明軍は鴨緑江を越えて45000人で突如進軍してきた。
小西行長軍15000人が平壌で襲われ、これが朝鮮の役で唯一の日本の敗戦
になった。朝鮮は荒れ果てていて補給しなければ進めなかった。
日本軍は京城に集結して碧諦館で明軍を迎え撃った。主力は小早川、毛利
立花だった。これに大勝する。慶長の役は朝鮮が荒れ果て補給が困難だった
ため、全羅道と慶尚道だけ占領した。日本軍は交通の便のいい要所だけ
押さえた。蔚山城を4万の明軍と2500の朝鮮軍が急襲。苦戦したが援軍が
来て形勢は逆転1万をこえる首をとった。島津も26800人が4~5万の明軍
を晋州でそれを撃破38077人の首をあげたと記録に残っている。
露梁津の海戦では島津が講和が成立して撤退中に明と朝鮮の水軍の奇襲を
受け大変苦戦したと日本では通説になっているが、実際は明水軍の副将と
李舜臣が戦死し、島津軍も無事に撤退しているので日本が負けたとはいえない。

朝鮮の役は日本が苦戦したと大河ドラマでは表現されているが、実際は明軍
と日本軍の直接対決であり、会戦では日本側が勝利している。
ただし、大義なき戦争であり日本軍に厭戦気分があったのは事実である。

渡辺氏の独自の視点の歴史は面白い。
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